建議書を受取る

 復帰措置に関する建議書の「はじめに」の冒頭には、

 琉球政府は、日本政府によって進められている沖縄の復帰措置について総合的に検討し、ここに次のとおり建議いたします。
 これらの内容がすべて実現されるよう強く要請致します。

(復帰措置に関する建議書-はじめに- 昭和46年11月18日 琉球政府 行政主席 屋良朝苗)

と記されています。

 当時も、また今もわたしたちが受け取ることを拒み続けてきた建議書は、いわゆる沖縄本土復帰50年を迎える今年、新たな建議書あるいは宣言となって発表されると言われています。

 現今の日本は、米国大統領選挙や英国の欧州連合離脱あるいは欧州での移民排斥の動き、さらには宗教過激派のテロリズムや民族紛争、ロシアとウクライナの緊迫した状況など、国際的な政情不安の只中にありながら、国としての明確な展望を打ち出せず、混沌たる状況が続いています。そうした情勢下で沖縄に過重な負担を強いている米軍基地の問題は、常に世論にかき消され続けています。このようなことをいつまで続けるのでしょうか。

 結果的に「復帰措置に関する建議書」を本土は受け取ることから逃げ続け、沖縄不在の中で沖縄の未来が決定されている。当時もそしていまも。
 ここでは建議書に綴られる沖縄の声を真摯に受け取ることを推進し、「はじめに」を読み解いていく。


 沖縄の祖国復帰はいよいよ目前に迫りました。その復帰への過程も、具体的には佐藤・ニクソン共同声明に始まり、返還協定調印を経て、今やその承認と関係法案の制定のため開かれている第六七臨時国会、いわゆる沖縄国会の山場を迎えております。この国会は沖縄県民の命運を決定し、ひいてはわが国の将来を方向づけようとする重大な意義をもち、すでに国会においてはこの問題についてはげしい論戦が展開されております。
 あの悲惨な戦争の結果、自らの意志に反し、本土から行政的に分離されながらも、一途に本土への復帰を求め続けてきた沖縄百万県民は、この国会の成り行きを重大な関心をもって見守っております。顧みますと沖縄はその長い歴史の上でさまざまの運命を辿ってきました。戦前の平和の島沖縄は、その地理的へき地性とそれに加うるに沖縄に対する国民的な正しい理解の欠如等が重なり、終始政治的にも経済的にも恵まれない不利不運な下での生活を余儀なくされてきました。その上に戦争による苛酷の犠牲、十数万の尊い人命の損失、貴重なる文化遺産の壊滅、続く26年の苦渋に充ちた試練、思えば長い苦しい茨の道程でありました。これはまさに国民的十字架を一身にになって、国の敗戦の悲劇を象徴する姿ともいえましょう。その間大小さまざまの被害、公害や数限りのない痛ましい悲劇や事故に見舞われつつそしてあれにもこれにも消え去ることのできない多くの禍根を残したまま復帰の歴史的転換期に突入しているのであります。
 この重大な時期にあたり、私は復帰の主人公たる沖縄百万県民を代表し、本土政府ならびに国会に対し、県民の率直な意思をつたえ、県民の心底から志向する復帰の実現を期しての県民の訴えをいたします。もちろん私はここまでにいたる佐藤総理はじめ関係首脳の熱意とご努力はこれを多とし、深甚なる敬意を表するものであります。

(同)

 1969年11月20日および21日、ワシントンDCにおいて当時の佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領は、時事問題における共通認識の確認や意見交換をしている。共同声明は15項目となっており、内7項目において沖縄の復帰・返還・返還後のことについて触れている。内容の一部を以下に抜粋。

「総理大臣と大統領は、ヴィエトナム戦争が沖繩の施政権が日本に返還されるまでに終結していることを強く希望する旨を明らかにした。これに関連して、両者は、万一ヴィエトナムにおける平和が沖繩返還予定時に至るも実現していない場合には、両国政府は、南ヴィエトナム人民が外部からの干渉を受けずにその政治的将来を決定する機会を確保するための米国の努力に影響を及ぼすことなく沖繩の返還が実現されるように、そのときの情勢に照らして十分協議することに意見の一致をみた。」
「総理大臣は、日米友好関係の基礎に立つて沖繩の施政権を日本に返還し、沖繩を正常な姿に復するようにとの日本本土および沖繩の日本国民の強い願望にこたえるべき時期が到来したとの見解を説いた。大統領は、総理大臣の見解に対する理解を示した。」
佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領との間の共同声明より

 その後、1971年6月17日にワシントンDCおよび東京にて「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」へそれぞれが調印。

琉球諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 第1条

 基地のない島を取り戻したい。そう願って本土復帰を希望としていた沖縄。しかし、沖縄に関する協定や審議には、沖縄の声が汲み取られていないことがはっきりとわかる。第一条には「施政権をアメリカから日本へ移す」ことと同時に「責任を引き受ける」つまり、日本になる責任が生じることをうたっている。

琉球諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 第2条

 第2条では「日米間の安全保障条約や協定が適用される」ことが記されている。

琉球諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 第3条

 第3条では、「アメリカ合衆国に対しーーー施設及び区域の使用を許す」とあり、沖縄不在の中で日米が勝手に決めて勝手に合意した結論である。簡単に言えば、沖縄が本土復帰を果たした瞬間に施政権hは日本へ渡り憲法が適用され、日本になるということは日米安保も享受する義務がある。だから米軍もおいておこうね、といったものだ。米国・米軍にとっては基地機能を減少させずに現状を維持できる協定の内容である。沖縄の声が汲み取られていないどころか、沖縄の声が踏みにじられていることがわかる。

 1971年10月16日から12月27日までの第67回の臨時国会で、佐藤栄作総理大臣による所信表明演説には、重要課題のひとつを「沖縄問題」として「日米間の友好と信頼のきずなのもとに、戦争で失った領土を平和裏に話し合いで回復する」と述べている。内容の一部を以下に抜粋。

「沖縄が核抜き本土並みで返還されることは、アジアの緊張を緩和するのみならず、日米修好百年の歴史に、さらに輝かしい一ページを書き加えるものであります。この際あらためて、私は、これまでことばに尽くしがたい辛酸をなめてこられた沖縄百万の県民に対し、全国民とともに、衷心よりその御労苦をねぎらうものであります。さきの戦争においては、おとなも子供も、男も女も、全島あげて祖国防衛の第一線に殉じ、戦後は二十余年の長きにわたって外国の施政権下に置かれてきたこれら同胞の方々に対し、ほんとうに御労苦をおかけいたしました、と申し上げる以外のことばを知らないのであります。この上は、その御労苦に報いるためにも、一日も早く円滑な復帰を実現し、明るく豊かでそして平和な沖縄県を建設することが、われわれに課せられた使命であると信ずるものであります。」
琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定より

 以降の首相も「沖縄のみなさまに寄り添い」という言葉を度々使っていたが、根本的にこの国家は沖縄に耳を傾けてはいない。この姿勢は最近に始まったことではなく、長年にわたり、言葉を巧みに吐いてなんとなくやり過ごしてきたのだ。

 この協定で述べられている言葉は嘘ではないのだろうが、しかし、真理でもないのだろう。そうしたことを沖縄県民と琉球政府はすでに見抜いていた。

「へいりの様に踏みにじられた」建議書 沖縄復帰50年、変わらぬ願い(毎日新聞 2021年11月23日)


 さて、アメリカは戦後二十六年もの長い間沖縄に施政権を行使してきました。その間にアメリカは沖縄に極東の自由諸国の防衛という美名の下に、排他的かつ恣意的に膨大な基地を建設してきました。基地の中に沖縄があるという表現が実感であります。百万の県民は小さい島で、基地や核兵器や毒ガス兵器に囲まれて生活してきました。それのみでなく、異民族による軍事優先政策の下で、政治的諸権利がいちじるしく制限され、基本的人権すら侵害されてきたことは枚挙にいとまありません。県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからに外なりません。経済面から見ても、平和経済の発展は大幅に立ちおくれ、沖縄の県民所得も本土の約六割であります。その他、このように基地あるがゆえに起るさまざまの被害公害や、とり返しのつかない多くの悲劇等を経験している県民は、復帰に当っては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります。

 また、アメリカが施政権を行使したことによってつくり出した基地は、それを生み出した施政権が返還されるときには、完全でないまでもある程度の整理なり縮小なりの処理をして返すべきではないかと思います。

 そのような観点から復帰を考えたとき、このたびの返還協定は基地を固定化するものであり、県民の意志が十分に取り入れられていないとして、大半の県民は協定に不満を表明しております。まず基地の機能についてみるに、段階的に解消を求める声と全面撤去を主張する声は基地反対の世論と見てよく、これら二つを合わせるとおそらく八〇%以上の高率となります。

(同)

 日本国憲法施行の1947年5 月 3日、沖縄も効力を持てる権利がありつつも排除され、1952年 4月 28日にはサンフランシスコ講和条約の発効と同時に、同条第3条により米軍の統治下となり、本土はこの日をもって主権を回復されたとされる。

※第三条「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

「復帰に当っては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります。」「完全でないまでもある程度の整理なり縮小なりの処理をして返すべきではないかと思います。」「このたびの返還協定は基地を固定化するものであり、県民の意志が十分に取り入れられていないとして、大半の県民は協定に不満を表明しております。」という言葉を、本土の中で真摯に受け取ってきた人はどれぐらいいるのだろうか。この悲痛であり悲願の叫びとしか言えない言葉を、どれぐらいの人々が受け止めてきたのだろうか。

 次に自衛隊の沖縄配備については、絶対多数が反対を表明しております。自衛隊の配備反対と言う世論は、やはり前述のように基地の島としての復帰を望まず、あくまでも基地のない平和の島としての復帰を強く望んでいることを示すものであります。

(同)

 度々、「米軍基地に反対することは理解できるけど、沖縄も日本の一部なのだから自衛隊に反対するのは間違い」との主張があるが、そもそも沖縄に自衛隊や軍隊の基地はなかった。本土復帰後に増え始めたのである。それまで沖縄は台湾や中国との外交を正常に保ってきた歴史がある。また、軍隊や自衛隊という組織が成立するのは、多くの人の理解があり信頼関係があってこそだ。昨今、自衛隊の南西シフトにおける配備が強硬的に行われているが、何を作ってどんなものを設備するのかなどの説明も出来ないような組織に対しては、それが軍事施設の建設ではなく高層マンションの建設であったとしても反対運動は起きる。
 石垣島のおじいさんは、自衛隊配備が決まったあとにどうしたら良いのかわからず、工事中の自衛隊基地でどんなことが起きていて、どんな施設が出来て、どんな人々が来るのかが不安でいっぱいだと言った。どうしたらきちんと説明してくれるのか、ただただ話を聞かせて欲しいと困惑しながら島の山や水源のことを心配していた。たった一人で基地建設の行われている場所につき、イエローラインの「向こう側」に立つ若い警備員に話しかける。「今日は早かったね。じゃあ帰りは遅くなるのかな。風邪ひくなよ。」こうして話しかけていればいつかは友達になって話を聞かせてくれるさと言うが、今の状況を見るとその努力が実ることはなさそうだ。
 神道思想家葦津珍彦は、自衛隊は有事において犠牲的精神で任務を遂行し、国家と市民の「信頼」を取り持つ意義があるとしていますが、宮古・石垣をはじめ沖縄で国家と市民の間に「不信」を生む自衛隊の姿は「建軍の本義」を失っていると言えます。

中村も南西諸島での自衛隊配備に反対の意思を表明しています

建議書を受取る-2につづく